未来の嘉田代表の信念の強さのルーツ&胃がんを乗り越え、政治にかけた決意
2012年 12月 11日
これは12月11日、2本めの記事です。
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mewは、日本未来の党の嘉田由紀子代表を応援している。
先日は『強く苦い薬の小沢も使いこなす力がある(?)未来代表・嘉田の女傑伝説』という記事をアップ。
嘉田氏が、ソフトな外見や話し方の持ち主ではあるものの、いかに芯が強い、粘り強い人で、政治活動にも情熱を抱いているかということを書いたのだけど。
今回は、その第二弾で。嘉田氏に関する2つの雑誌記事をアップしたい。
一つは、『嘉田由紀子 新党結成の陰に「時代に泣いた13人家族の母」』という記事だ。
ここには、嘉田氏の信念、粘り強さ、そして女性の社会進出への思いのルーツが記されている。
もう一つは、『嘉田由紀子 育児ノイローゼに胃がん摘出…次男語る激動半生』。
この記事では、嘉田氏の次男が、病気を乗り越えて、政治の道に足を踏み入れるまでの母の道のりについて語っているのだが。嘉田氏が、決して小沢氏に誘われて中途半端に党首になったのではなく、強い決意で今の政治活動に取り組もうとしていることがわかるのではないかと思うです。(・・)
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『嘉田由紀子 新党結成の陰に「時代に泣いた13人家族の母」
「妹は人あたりはソフトですが、非常に芯は強い。気が強くて、決めるとテコでも動かないところがあります」
そう苦笑いするのは、嘉田由紀子滋賀県知事(62)の実姉・明堂純子さん(66)。総選挙直前に「卒原発」を掲げて結党した『日本未来の党』の代表でもある彼女の実家は埼玉県本庄市。養蚕農家の二女だった。2年前に亡くなった実父は本庄市の市議を3期務め、実姉・純子さんも現在、同市の市議を務めている。
「父は8人きょうだいの長男でしたから、実家は祖父と祖母、叔父や叔母もいっぱいいる大家族。多いときは13人で暮らしたこともありました。母は大家族の長男の嫁に来て、体力的にも精神的にも苦労しました。養蚕農家って過酷なんですよ。朝早くに起きて、まずお蚕にご飯をあげてから自分たちが食べて……。父は仕事柄、家を空けがちだったので、母は一緒に働く姑にも夜遅くまでこき使われて大変だったと思います。苦労している母を助けたいと、私も妹も学校から帰ると蚕の世話をしたりしました」(純子さん)
嘉田知事はこうした封建的な家庭環境から飛び出すように、高校卒業後は京都大学農学部に進学。サバンナに憧れ探検部に入部し、アフリカのタンザニアに単身、住みこんだ。そして、在学中に知り合った良平さん(64)と22歳で結婚。2児に恵まれるも、研究者として共働きの道を選んだ。
そんな“研究畑一筋”の彼女に一大転機が訪れたのが06年。滋賀県知事選への出馬だった。夫をはじめ、家族のほとんどが反対したという。しかし、それらの反対を押し切ってまで、彼女は政治の世界に飛び込んだ。そこには、“母の死”も大きく影響しているようだ。
「母は96年に亡くなりました。妹は本当にショックを受けていました。妹は幼いころから母の苦労を見て『どうして女性がこういう辛い目にあうんだろう』という思いが強かったようです。女性にとって大変な時代でした。母は学校の先生をしていて、基本的な能力は非常に高い人でした。料理も縫い物も上手ですし、何でもできた。だけど、その母の才能を生かせない時代でしたよね……。だからこそ今、妹は女性の力を社会で発揮できる世の中にしたいと思っているのでしょう」(純子さん)
“鉄の信念”を貫き「女性が幸せになれる国へ」と突き進む彼女の胸底には、最愛の母への誓いがあった――。
女性自身 2012年12月06日 』
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長いので、チョットお休みタイム。( ^^) _旦~~so-cha o douzo!
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『嘉田由紀子 育児ノイローゼに胃がん摘出…次男語る激動半生
「もともと学者志望だった母は博士号を取る前に子供ができたので、子育てと研究の両立にすごく苦労したと、何度も母自身から聞いています。母が26歳のとき兄が生まれ、当時両親は夫婦揃ってアメリカの大学に留学中でした。父は以前と変わらず大学に通えたのに、母は勉強したいのに家で子育てしなければいけない。それで『育児ノイローゼになりかけた』と言っていました」
そう語るのは、嘉田由紀子滋賀県知事(62)の二男で京大研修員の修平さん(33)。総選挙直前に「卒原発」を掲げて結党した『日本未来の党』の代表でもある嘉田知事。在学中に知り合った良平さん(64)と22歳で結婚し2児に恵まれた彼女だが、知られざる激動の半生があったという。修平さんがこう続ける。
「米国から帰国後、母は京大の研究室に戻ってきたんですが、なかなか子どもを保育園に預けることができずに苦労したそうです。当時、学生の身分だと、子どもを受け入れる保育園が京都にはなかったようです。滋賀に転居したのは琵琶湖の研究もありましたが、学生でも県内の保育園で子どもを預かってもらえたのが、いちばんの理由だったそうです」
81年に琵琶湖研究所の主任研究員となった嘉田知事。修平さんが小学生になると研究に没頭し、帰りが遅くなる日も増えたという。修平さんが中学に進学した92年、嘉田知事は琵琶湖博物館の開設準備室員となる。それと前後するように体調に異変が起こった。胃がんだった。
「手術で胃の約3分の2を摘出しています。確かにそのときは大変でした。博物館の開館準備で毎日、朝早くから深夜まで働きづめでしたから……」(修平さん)
子育てに加え、博物館の準備に奮闘する余り、体に負担がかかってしまったようだ。しかし、退院後も研究への情熱は冷めることがなかった。そんな“研究畑一筋”の彼女に一大転機が訪れたのが、06年の滋賀県知事選だった。夫をはじめとして家族のほとんどが反対するなか出馬し当選。離婚は2年後、修平さんが結婚式を終えた数日後だった。
「私の結婚で息子2人が一本立ちし、親としての役割を終えたタイミングでの離婚となりました。父の単身赴任も4~5年続いていましたし、父は“政治に足を踏み入れるべきではない”という意識が強かった。逆に母は使命感を持つなら政治に足を踏み入れるしかないと思っていたんです」
女性自身2012年12月06日 』
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未来の党は、残念ながら、やや苦戦している様子。
世間では、「選挙目当てで作られた新党に過ぎない」「嘉田氏は他のベテラン政治家や選挙がアブナイと思っている候補者に利用されているに過ぎない」という冷ややかな目で見ている人も少なくない。
でも、仮に衆院選で負けて、選挙目当ての政治家たちが嘉田氏の下から離れて行くことがあったとしても、嘉田氏は、簡単に信念を捨てる人ではないように思われる。
彼女は大きな病気を乗り越え、子育てを終え、妻も卒業し、これからの残りの人生を政治活動にかけようという強い決意を持って、滋賀県知事を務めると共に、国政へも働きかけようとしているからだ。それに、嘉田氏のように権利欲や私利私欲で活動をしているわけではないので、何があろうと、自分の道を歩いて行くだけなのである。(・・)
<だから、他の政治家のように、権力or政治力ベースでアレコレ考えて、小沢一郎氏のことを、よくも悪くも大きな存在としてとらえたり、妙に恐れたりということがないのかも知れない。>
それゆえ、嘉田氏は衆院選の結果がどうあろうとも、おそらく今後も、「卒原発」や女性が子育てとの両立して、また自らの能力を活かして働ける社会作りを目指して、しっかりと地道に、そして粘り強く、未来の党の活動を続けて行くのではないかと思うし。そんな嘉田氏をずっと応援して行きたいと思っているmewなのだった。(@@)
THANKS
p.s. そして、小沢氏も、ある程度、嘉田氏がそういうタイプの人だということを理解&承知をした上で、嘉田氏を党首にして新党を作ることを考えたのではないかな~と思う。
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