昭和天皇からの手紙~息子・現天皇に、皇国論や軍国主義の誤り、国民の生命重視を伝える
2016年 01月 01日
【*1、*2などの関連記事は、記事の最後にあるMoreの部分にあります。】
あけまして おめでとうございます。(*^^)v祝
今年もよろしくお願いいたします。m(__)m 2016年元旦
今年の目標ですか? もちろん百万馬券・・・も欲しいけど。私生活では、健康第一!o(^-^)o
そして、一国民としては、何より「安倍政権を終わらせること」です! (^ー^)kippari
* * * * *
さて、これまで、何回もブログに書いていることなのだけど。(最近だと『天皇誕生日会見~戦争を考えて過ごした1年。命失った多数の民間人の話に声を震わす』とかね。)
mewは、今上(明仁)天皇は、日本で最も平和主義&反戦主義者(&護憲派)なのではないかと考えている。
そして、日本が21世紀にはいって(特に安倍政権の間に)どんどん右傾化して行く中、何とか国民に、戦争のおそろしさ、平和維持の大切さを再認識してもらいたいと願い、これまでより積極的に、時にやや踏み込んだ表現を用いて、それらに関する話を機会あるごとに行なっているのである。(++)
そこには、天皇として、ともかく日本の国民の命、安全を守りたいという強い思いがあるのではないかと察する。
そして、mewは、そのような思いが芽生えた背景には、11歳で迎えた終戦時に、父である昭和天皇から送られた手紙、そこに記された心情があるのかも知れないと思ったりもしている。(・・)
* * * * *
これはフジTVが、昨年12月22日のニュースで取り上げていたものなのだが。(「昭和天皇が息子・天皇に宛てた手紙 平和からの願い 父から子へ」というタイトルで。)
『12月23日は、天皇陛下の82歳の誕生日です。長年、慰霊の旅を続ける陛下が、戦後まもないころ、父の昭和天皇から受け取られた手紙がありました。
戦後70年を迎えた2015年、陛下は、平和への願いを胸に、各地へと足を運ばれた。
4月、先の大戦で太平洋での激戦地となったパラオを、慰霊のための訪問された。
そして、5月には、東京大空襲の犠牲者が眠る慰霊堂へ。
6月には、観音崎での戦没・殉職者船員追悼式に出席された。
陛下は2年前、80歳、傘寿の誕生日の際も、80年の人生の中で最も印象に残ることは、先の大戦と述べられている。
2013年、陛下は「私が、学齢に達した時には、中国との戦争が始まっており、その翌年の12月8日から、中国のほかに、新たに、米国、英国、オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは、小学校の最後の年でした。前途にさまざまな夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましいかぎりです」と述べられた。
陛下が、小学校最後の年と語られた、終戦の年。その年末の天皇ご一家の様子などを写した写真展が、現在行われている。
そこには、当時皇太子だった陛下が、ニワトリを追われる姿や、息子を見守る昭和天皇の写真など、戦後直後の昭和天皇の笑顔を収めた、貴重な作品が展示されている。
実は、これらの写真が撮影される数カ月前、父である昭和天皇から、息子、現在の陛下宛てに、1通の手紙が送られていた。手紙が書かれたのは、終戦からまもない、1945年9月。父親らしい、息子を気遣う言葉から始まっている。
手紙には、「手紙をありがとう。しっかりした精神をもって、元気で居ることを聞いて、喜んでいます。国家は多事であるが、私は丈夫で居るから安心してください。今度のような決心をしなければならない事情を早く話せばよかったけれど、先生とあまりにちがったことをいうことになるのでひかえておったことをゆるしてくれ」とつづられていた。
昭和天皇から、息子である陛下に送られたこの手紙には、先の大戦への後悔の念がつづられていた。23日、82歳になる天皇陛下が11歳の時に、父、昭和天皇から受け取られた1通の手紙。
そこには、戦争終結への決意に至った過程を振り返り、息子に伝えようとする思いが込められていた。
昭和天皇の手紙には、「敗因について一言いわしてくれ。わが国人(くにびと)が、あまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどったことである。わが軍人は、精神に重きを置きすぎて、科学を忘れたことである」と、敗戦の理由について言及している。
そして、「戦争をつづければ、三種の神器を守ることもできず、国民をも殺さなければならなくなったので、涙をのんで国民の種をのこすべくつとめたのである」とつづられていた。
そして、手紙の最後は、「寒くなるから身体を大切に勉強なさい」と、父親らしい言葉で締めくくられていた。
昭和天皇から陛下に、この手紙が送られてから70年。父から子へと引き継がれた平和への願いを胸に、陛下は、日々を歩まれている。(FNN15年12月22日)』
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
ちなみに、昭和天皇が送ったとされる手紙の全文はこちらにある。
『手紙をありがたう しつかりとした精神をもつて 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます。
国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひ
かへて居つたことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ
我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである
我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつたからです
戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである
穂積大夫は常識の高い人であるから わからない所があつたら きいてくれ
寒くなるから 心体を大切に勉強なさい
九月九日 父より 明仁へ』
* * * * *
昭和天皇が、先の大戦に関してどのように考えていたのか、どのように関与や言を動していたのか、様々な情報や説があるし。mewは、その真意や事実を知る由もないのだけど。
ただ、昭和天皇は英国流の立憲君主制にこだわっていたことや、当時の政府や軍部が天皇に具体的な情報提供や指示の要求をしていなかったことから、なかなか自分の本当の考えを述べる機会がなかったのは事実のようだ。
そして、対外的な言動はさておき、昭和天皇はいずれ天皇になるであろう自分の息子が、将来、過ちを犯さぬようにと考えて、できるだけ正直に自らの考えや心情、教訓、天皇としての心構えなどを伝えようとしたのではないかと察する。(・・)
* * * * *
実際、「我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつた」「我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れた」「軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつた」という敗因の分析は、的確なものだと思うし。
<周囲には天皇を神と崇めたり、皇国論や軍国主義に固執したりする人が少なからずいたかも知れないのだけど。以前も書いたように、昭和天皇自身は、英米(特に英国)の考えやものが好きで、戦況が悪化するまでは英米の様々な情報を得ていたので(だから、松岡がドイツと手を結んで、英米を敵に回そうとしたのを知って怒ったのよね)、周囲の人たちより、現実的、客観的かつ冷静に状況を分析することができたのかも?^^;>
戦争を続けた場合、「三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならない」「涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめた」という表現は、まさに当時の天皇っぽい感じがあるのだけど。
でも、昭和天皇は、自らの臣民である国民は、日本の国家や国体(天皇制・三種の神器含む)を守るために戦って死んでも構わないとは思わず。国民をこれ以上殺さず、命を守って子孫を残して行くためには、涙をのんでも降伏を決断すべきだと考えたわけで。
この手紙を通して、(もし周囲の戦前思想が残っている人が何を言おうと)今後は皇国論や軍国主義的な精神論を重視しないように。国民の命を大切にするようにと、しっかりと伝えたかったのではないかと思う。(**)
また昭和天皇は、mewがきいた話では、皇太子だった明仁天皇に戦争に関する歴史、加害や被害などについて学ぶ機会を設けていたとのこと。
明仁天皇が「6月23日(沖縄慰霊の日)、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)、8月15日(終戦の日)の4つは忘れる事の出来ない日付である」と語っているのも、子供たちに積極的に戦争に関して学ぶ機会を作って来たのも、その影響があるのかも知れない。(++)
* * * * *
別にmewは皇室オタでも、ウヨ的な天皇・皇室崇拝者でもないので、ここで昭和天皇をヨイショする気はまったくないのだけど。<明仁天皇のファンではあるけど。ちなみに、昭和天皇は、お相撲を観覧に行った時に、下位の取り組みでも、身を乗り出して一生懸命に応援したり、手を叩いたりしている姿が好きだったです。>
何で安倍首相を含め、天皇・皇室崇拝者である保守派の政治家や識者に限って、天皇が父から子へ引き継いで来た&今後も引き継ごうとしている平和への思いを理解できないのかな~と。
何で戦前のおXXな政治家や軍人が誤って突き進んだアブナイ道を、また歩もうとしているのかと・・・。
それを思うと、何だか腹立たしいやら悔しいやら、哀しいやら情けないやらで。お正月から、またストレスが溜まって、ぐれてしまいそうなmewなのだった。_(。。)_
THANKS
人気ブログランキングへ