平和を訴えた三笠宮親王、100歳の長寿をまっとう。軍人体験から戦争、陸軍などを批判

 これは10月27日、2本めの記事です。

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【*1、*2などの関連記事は、記事の最後にあるMoreの部分にあります。】


 昭和天皇の末弟、天皇陛下の叔父であり、三笠宮崇仁親王が、27日朝、肺炎のため、亡くなった。100歳の長寿をまっとうされたと言うべきかも知れない。
 
『民進党の山井和則国対委員長は27日午前の記者会見で、三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下が薨去(こうきょ)されたことに関し「一貫して平和の大切さを訴えてこられた方だった。そのような方がお亡くなりになったことは本当に残念でたまらない」と述べた』という記事が出ていたのだけど。(産経新聞16年10月27日)

 崇仁親王は、太平洋戦争中の43年1月から1年間、支那派遣軍総司令部参謀として中国・南京に赴任して、軍隊での生活を経験したことがある。
 そして、当時、自ら体験、見聞に基づいて、戦争や軍人の残虐行為を批判。(安倍首相らが否定する南京大虐殺も半ば肯定。)平和の重要性を唱え続けた皇族でもあった。(関連記事*1)
 mewは、勝手ながら、その考えや思いは、今上天皇にも影響を与える共に、継承されている部分が大きいように感じている。

 親王自身、皇室の閉鎖性や紀元節などの復活を望むような復古主義の皇室支持派(安倍氏もそのひとりだよね)も批判。ヒゲの殿下として知られた長男の故寛仁親王も、一時、皇室離脱の意思を表明して話題になったのだが。その意味では、皇室のあり方に一石を投じた皇族たでもあった。
 保守派勢力からは「赤い宮さま」と揶揄されたこともあったそうだが。天皇が自分の考えをオモテで言いにくい分、天皇の弟である自分が、言うべきことを言わなければというある種の使命感も有していたのかも知れない。

 またスポーツも好きで、戦後、早い時期からスポーツ振興に力を入れていたとのこと。今でも、様々な競技に「三笠宮杯」などその名が冠についた大会が存在する。

 謹んでご冥福をお祈りしたい。

* * * * *

『三笠宮さま逝去=100歳、昭和天皇末弟-歴史学者として活躍

 昭和天皇の末弟、天皇陛下の叔父で、古代オリエント史の研究者としても知られる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日午前8時34分、心不全のため、入院先の東京都中央区の聖路加国際病院で亡くなられた。100歳だった。皇位継承順位は第5位で、明治以降の皇族では最高齢。本葬に当たる「斂葬(れんそう)の儀」は文京区の豊島岡墓地で営まれる。宮内庁は日取りなどの検討を始めた。

 三笠宮さまは急性肺炎と診断され、5月16日から聖路加国際病院に入院していた。宮内庁によると、27日午前7時40分までは容体が安定していたが、徐々に心臓の拍動が弱まり、同8時ごろ心停止に陥った。同病院に検査入院中だった同妃百合子さまが最期をみとったという。

 1915年12月2日、大正天皇の四男として誕生。称号は澄宮(すみのみや)。学習院初等科、同中等科を経て陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。成年を迎えた35年に三笠宮家を創立し、41年10月に子爵・故高木正得氏の次女百合子さまと結婚。太平洋戦争中の43年1月から1年間、支那派遣軍総司令部参謀として中国・南京に赴任し、終戦時は陸軍少佐だった。

 戦後、東大文学部の研究生となり、古代オリエント史研究者の道を歩んだ。日本オリエント学会の初代会長を務め、東京女子大や青山学院大の講師、東京芸術大の客員教授などとして教壇に立ち、テレビやラジオなどにも出演。歴史学者の立場から、連合国軍総司令部(GHQ)の意向で廃止された紀元節復活の動きに反対したほか、戦争末期の44年に陸軍を批判した文書が後に見つかり、反響を呼んだ。

 中近東文化センター名誉総裁、日本・トルコ協会名誉総裁などを務め、国際親善をはじめ、さまざまな分野に貢献。ダンスにも親しみ、普及に尽力した。著書は「帝王と墓と民衆」「古代オリエント史と私」「わが歴史研究の七十年」など多数。 

 百合子さまとの間に長男の故寛仁(ともひと)さま、次男の故桂宮さま、三男の故高円宮さま、長女の近衛※子(※ウカンムリの下に心その下に用)さん、次女の千容子さんの5人のお子さまをもうけ、2002年11月に高円宮さま、12年6月に寛仁さま、14年6月に桂宮さまを亡くした。百合子さまの叔父は昭和天皇の侍従長を務めた故入江相政氏。

 11年に結婚70年を迎え、96歳だった12年7月に心臓の僧帽弁の機能回復手術を受けた。15年に100歳を迎えていた。(時事通信16年10月27日)』

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『オリエント史研究に情熱=戦争、皇室批判も―激動の一世紀歩む・三笠宮さま

 亡くなられた三笠宮さまは終戦まで軍人生活を送り、戦後は古代オリエント史研究に情熱を傾け、「オリエントの宮さま」と呼ばれた。

 戦時中の体験から戦争批判を繰り広げ、歴史学者の立場から紀元節復活に反対。時に大胆な発言が波紋を呼んだが、暗い時代に戻るまいとの強い決意の表れでもあった。

 ◇聖戦の裏側で

 第1次世界大戦中の1915年12月生まれ。幼少時に童謡を作詞し、「童謡の宮さま」と呼ばれた。陸軍大学校を卒業した41年12月、太平洋戦争が始まった。意気盛んな青年将校だった三笠宮さまに、戦争に対する決定的な疑問を抱かせたのは、支那派遣軍総司令部参謀として赴いた戦地の中国・南京で見聞きした日本軍の残虐行為だった。

 44年1月、三笠宮さまが陸軍を批判した文書は50年後の94年7月に見つかった。自身の「お印(しるし)」にちなんだ秘匿名「若杉参謀」の名で書かれ、「支那事変に対する日本人としての内省」と題し、「現在日本人、特に軍人に欠如しているものは『内省』と『謙譲』」と述べ、軍部に猛省を迫った。

 日本軍の残虐行為をテーマにした映画を日本に持ち帰り、昭和天皇に見せたこともあった。「聖戦という大義名分が、事実とはおよそ懸け離れたものであった」「聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」。著書に付した「わが思い出の記」で当時の苦悩を吐露している。

 終戦の年の45年5月、宮邸は空襲で全焼。妻の百合子さま、1歳だった長女の近衛※子さん(※ウカンムリの下に心その下に用)と共に、コンクリート製の防空室で生活した。終戦直前には、後ろ盾を期待する抗戦派陸軍幹部からの働き掛けを断固として拒み、陸軍に反省を促したとされる。

 ◇「菊のカーテン」

 戦後、東大文学部の研究生となり、古代オリエント史研究者の道を歩み、「学者皇族」として活躍。テレビやラジオ、雑誌などにもたびたび登場した。憲法9条について「戦争放棄は大変いいと思いました」と述べ、紀元節復活の動きには「歴史学的、考古学的な裏付けがない」と反対。時に踏み込んだ見解を示し、保守派勢力から「赤い宮さま」とやゆされたこともあった。

 太平洋戦争以前の皇室制度を「格子なき牢獄(ろうごく)」と著書で表現。皇室の閉鎖性を、東西冷戦時代の「鉄のカーテン」になぞらえ、「菊のカーテン」と表現した。「皇室を尊厳の対象にしようとすると、また昔の状態に向かう恐れがあるのではないでしょうか」と雑誌の対談で述べたこともあった。

 研究では、宮内庁書陵部内に三笠宮研究室を開設する一方、東京女子大などの教壇に立った。同大の食堂で学生と語らい、いつも注文する1杯20円のきつねうどんは「宮さまうどん」と呼ばれた。

 ◇内助の功に感謝

 2008年に「わが歴史研究の七十年」を「総括の意味」で出版。「古代史はこれからつくられるのです」と、若い研究者への思いを記し、研究への情熱は晩年も衰えなかった。

 「顧みれば、70年間、陰になり日なたになり私を助けてくれたのは、何といっても妻百合子であった」「今静かに過去の70年を振り返ってみるとき、百合子に対して感謝の言葉も見付からないほどである」(11年10月、結婚70年の所感)

 「世界中の人々の幸せを願い、70年以上にもわたり私を支えてくれている妻百合子に感謝しつつ、楽しく穏やかな日々を過ごしていきたい」(15年12月、100歳の所感)

 晩年、高円宮さま、寛仁さま、桂宮さまと最愛のお子さま3人に先立たれ、96歳での心臓手術など、苦難の連続だった三笠宮さま。人生の節目には、長年連れ添った妻百合子さまに、感謝の言葉をつづっていた。(時事通信16年10月27日)』 

 こうして見ると尚のこと、山井氏の言うように「一貫して平和の大切さを訴えてこられた方がお亡くなりになったことは本当に残念でたまらない」と思うmewなのだった。

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三笠宮さまが歩んだ激動の一世紀 日本軍を批判、紀元節復活に反対も

The Huffington Post | 執筆者:吉川慧
投稿日: 2016年10月27日

10月27日に100歳で亡くなられた三笠宮さまは戦前・戦中を陸軍軍人として過ごし、戦後は古代オリエント史の歴史学者として活躍した。時には旧軍への批判や「紀元節の復活」の動きに反対の論陣を張るなど、踏み込んだ発言でも話題になった。大正・昭和・平成と、激動の一世紀を歩んだ三笠宮さまの足跡を振り返る。

■陸軍参謀として中国へ 軍規の乱れを戒める講話も

三笠宮さまは1915(大正4)年12月2日に大正天皇の四男として誕生。学習院初・中等科から陸軍士官学校、陸軍大学校に進んだ。

43年1月からは中国への派遣軍の参謀として南京に赴任。お印にちなんだ「若宮参謀」の名を用いた。現地で軍紀の乱れや中国人の虐殺などを見聞し、現地の将校らを戒める激烈な講話をした。当時としては、命がけともいえる行動だった。

この講話は「支那事変に対する日本人としての内省」という文書にまとめられており、1994年に国立国会図書館で発見された。

三笠宮さまは、日中戦争の解決しない理由を「日本陸軍軍人の『内省』『自粛』の欠如と断ずる」と厳しく軍部を批判、中国内の抗日活動について「抗日ならしめた責任は日本が負わなければならない」と指摘している。

また、南京に樹立した国民政府についても、「元来、国民政府は日本が真に中国のためを思い、民衆を救い、統一国家を完成するために作ったというより、諸外国から非難された日本の侵略主義を掩蔽(えんぺい)せんがための、一時的思いつきによる小刀細工の観が深い」としている。

さらに、日中戦争について「陛下の御考え又は御命令で戦闘が生じたのでなく、現地軍が戦闘を始めてから陛下に後始末を押しつけ奉ったとも言うべきもの」と、軍部の独走を指摘している。
(朝日新聞1994年07月06日夕刊)

著書『帝王と墓と民衆 - オリエントのあけぼの』に付された自叙伝「わが思い出の記」の中でも、「一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった」「聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」と、戦時中の苦しい心境を吐露している。

三笠宮さまは終戦時には陸軍少佐だった。ご結婚70年に寄せた文書では「空襲で邸(やしき)が全焼したため、経済的な労苦はほかの宮家と比べてはるかに大きかった」と当時を偲んでいる。

■「戦争放棄」を強く支持。しかし… 新憲法への揺れる思い

戦後間もない1946年6月、新憲法案を採決した枢密院の本会議で、三笠宮さまは新憲法案の戦争放棄を積極的に支持。日本の非武装中立を主張した。その一方で、「本草案はどうしても、マッカーサー元帥の憲法という印象を受ける」「種々の情勢上反対する訳にも行かないが、さりとて賛成することは良心が許さぬ」と賛否矛盾した態度をとった。こうした矛盾からは、当時置かれた困難な立場と率直な思いがうかがえる。以下に発言の一部を紹介する。

日本はたとえ受動的にせよ他国間の戦争はもちろん局地紛争にでも巻き込まれては日本の再建ができぬばかりでなく、今度こそ日本人の滅亡に陥る危険性がある。兵器の進歩を予察する時一層しかりである。故に日本は絶対に厳正なる局外中立を堅持せねばならぬ。
第一は本草案はどうしても、マッカーサー元帥の憲法か、一歩譲ってもごく少数の日本人の決めた憲法という印象を受けること。

■戦後はオリエント研究者に 歴史学者として「紀元節」復活に反対も

戦後は東京大学文学部の研究生として「古代オリエント史」を専攻。トルコなどで遺跡調査に携わった後、青山学院大学などで古代オリエント史の講師として教壇に立った。

戦後廃止された「紀元節」(神武天皇即位の日とされる2月11日)が、1950年代に「建国記念日」として復活させようという動きが高まると、歴史学上の確証がないことから歴史学者として反対の論陣を張った。デイリー新潮によると、三笠宮さまは「紀元節についての私の信念(「文藝春秋」59年1月号)」の中で、以下のように記している。

昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史――それは華やかではあるが――を信じた人たちは、また勝算なき戦争――大義名分はりっぱであったが――を始めた人たちでもあったのである。もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている
(南京虐殺は“人数に関係はありません”のお立場「三笠宮殿下」 | デイリー新潮より 2015/12/3)

保守派からは「赤い宮さま」と揶揄されたこともあったが、激動の時代を生きた皇族として、また歴史学者として時に踏み込んだ見解を示した。 (後略)
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Tracked from 国民の生活が第一は人づく.. at 2016-10-28 10:24
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by mew-run7 | 2016-10-27 13:36 | 政治・社会一般 | Trackback(1)