自民党で幹事長などの要職を務めた野中広務氏(92)が26日に亡くなった。ご冥福をお祈りしたい。
実は、当初、mewの中では、野中氏は政界の大ダヌキ(策士)というイメージが強かった。
竹下派の分裂後、反小沢Gのトップになってから、アレコレと画策しては、永田町のオモテでウラで動き回って話を決めるようなことが少なからずあって。「影の総理」と呼ばれたこともある人だからだ。 (・・) <特に、加藤ごヒイキだったmewは、「加藤の乱」を潰されたのは痛かったし、ガッカリだった。(-"-)>
野中氏は、小泉政権時代の03年、小泉元首相の独裁的な手法、郵政民営化などに反対(「非情の政治」だと批判)して、「小泉おろし」を画策。反小泉のmewはひそかに野中氏を応援していたのだが、仲間のひとりが小泉サイドに取り込まれて失敗して、政界を引退することになる。(-"-)
この時、野中氏が裏切った仲間に関して「毒まんじゅうを食らったのではないか」と非難したのだが。この「毒まんじゅう」が03年の流行語大賞になった。_(。。)_
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他方、戦争体験者である野中氏が、機会あるごとに平和の大切さや沖縄の諸問題を訴えたり、障碍者、生活弱者のケアに力を入れたりしているのを見て、その生真面目さや情の厚さに心惹かれる部分も。
特に近時はTVや講演で、安倍政権をかなり強く批判していたこともあり、このような見識のある&心あるご意見番がいなくなってしまうのは、本当に残念だ。(-"-)
昨日もどこかのTVがニュースで、このシーンを流していたのだが。97年に沖縄県の米軍基地用地の確保を続けるために作った改正法を議決する前に、報告のため衆議院本会議の壇上に立った野中氏は、法案提出側でありながら、あえてこのように訴えたのである。
「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないようことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わります」
『■野中広務氏を悼む
思い出されるのは、?を朱に染め誰かを指弾しているか、額を白くして何かを憂えているか、その二つの顔だけだ。喜怒哀楽のうち、怒と哀の感情量が人並み外れて大きい人だった。
その人生の象徴が、橋本龍太郎政権下の1997年夏の駐留軍用地特別措置法改正への言動である。在沖縄米軍の基地使用を継続するそれに対し、沖縄県民の反発は明らかだった。
野中氏は、自民党幹事長代理、衆院の特別委員長として、衆院の過半数をぎりぎり超える自社さ連立政権の枠組みを基本に、可決しようとした。それが米国を強く牽制(けんせい)できる「緊張感」を生むと信じたからだ。
他方、梶山静六官房長官は、同じ牽制でも別の道を考えた。新進党との「保・保連合」による圧倒的多数の可決だ。野中氏は、我々担当記者を相手に梶山氏への怒りをあらわにし、それに抗しようとしない橋本官邸や自民党を憂えた。
そして方法論では梶山氏に負けはしたが、衆院本会議での可決に先立つ委員長報告の最後、野中氏は異例の発言に及んだ。
「……古い苦しい時代を生きてきた人間として、今回の審議が、どうぞ再び大政翼賛会のような形にならないように若いみなさんにお願いをしたい」(朝日新聞18年1月26日)』
<野中は、梶山官房長官らが首相官邸主導で新進党と合意・裁決にはいったこと及び社民党や共産党をのぞくすべての政党が充分な議論を経ずに賛成したことに反発・批判したかったとし、「沖縄の痛みや日本外交の今後を考えると、法案はもっと緊張感を持って通すべきだったと思い、警鐘を鳴らす意味を込めて削除覚悟であえて発言した」とのちに語っている。
この発言は、小沢一郎率いる新進党側の要求により、国会会議録から消されている。(wikipediaより)>
そんな野中氏には、かつては天敵だった社会党の村山元首相や小沢一郎氏も含め、与野党の多くの議員が哀悼のコメントを出している。
関連記事と共にアップしたい。
『情ある「影の総理」戦争経験から護憲訴え 野中広務さん死去
「闘う政治家」のイメージが強かった野中広務さんだが、実際は「情」の人だった。戦争を体験し、京都府の旧園部町(現南丹市)の町議から地方政治の階段を一つずつ登ってきた生い立ちを主張や行動に色濃く反映させた政治家人生だった。折しも先の衆院選で自民党をはじめとする憲法改正に前向きな勢力が3分の2を超え、改憲がいよいよ現実味を帯びる中、情理をもって「憲法9条を変えてはいけない」と訴え続けた野中さんの言葉が一層重みを増す。
2016年7月、改憲が焦点となった参院選。自民党候補の応援演説で、野中さんは「戦争を経験した私の命のある限り、憲法9条だけは守ってほしいと考えている。再び恐ろしい戦いで犠牲者を出す。そのようなことを日本民族は犯してはならない」と訴えた。現役時代そのままの舌鋒(ぜっぽう)の鋭さ、迫力を残していた。
旧国鉄職員時代に召集され、陸軍上等兵で敗戦を迎えた。その経験が、戦禍にあったアジア、沖縄へのこだわりに表れた。「20世紀に起きたことは20世紀中に決着をつけたい」と中国や北朝鮮に何度も足を運んだ。
国内で唯一地上戦があった沖縄には、特に思い入れが強かった。沖縄米軍用地特措法改正法案が野党の一部も加わり衆院で可決された時には、特別委員長として行った国会報告で「(戦前の)大政翼賛会のようにならないように」とクギを刺した。その真意は「圧倒的多数で決まっても、異論を持つ者の存在を示しておく。そのほうが、後々のためになる」。少数に配慮する保守政治の知恵を体現した。
自らの歩みを「タケノコが一枚一枚皮を脱ぐように」と表現し、地方議員からたたき上げてきた経歴を自負した。旧園部町長、府議、副知事を経て、衆院議員初当選は57歳だったが、官僚や業界団体に人脈を広げ、党の選挙対策や利害調整に通じて力を付けた。袂(たもと)を分かった小沢一郎氏を、「悪魔」とまで批判して対立したことでも注目された。
一方で官房長官時代には自由党党首(当時)だった小沢氏に「ひれ伏してでも」と低姿勢を貫いて自自連立を成功させ、参院の過半数割れを克服した。
政敵に対しては猛烈に攻めたが、引き際も心得ていた。「けんか師」とも呼ばれた大胆な駆け引きは、要職に就きながらも地位に固執しない姿勢が支えた。党幹事長時代、加藤紘一元官房長官が野党提出の森喜朗内閣不信任案に同調しようとした「加藤の乱」を手際よく治めると、あっさり職を降りた。「影の総理」ともいわれ、実際、森政権末期には次期首相に取りざたされたが、固辞し続けた。
規制緩和を進め、イラク戦争への自衛隊派遣を決めた小泉純一郎元首相を厳しく批判。03年の総裁選で自ら擁立した候補が小泉氏に敗れると、政界を引退した。その後もメディアで反戦、平和への思いを発信し続けた。安倍政権が憲法解釈を変えて集団的自衛権を使えるようにした安全保障法制には、「議会政治が崩壊する。死んでも死にきれない」「自衛隊員が命を落とすかもしれず、他国の人を傷つけるかもしれない法だ」と言い、後輩議員に「歴史を真剣に学んでほしい」と注文を付けていた。(京都新聞18年1月27日)』
『野中広務元官房長官の訃報が伝わった26日、与野党から悼む声が相次いだ。野中氏が政争で見せた「剛腕」と、「平和」を追求し「弱者」に寄り添った政治姿勢は党派を超えて後進に影響を与えた。(中略)
自社さ政権当時、立憲民主党の枝野幸男代表はさきがけ、辻元清美国対委員長は社民党で野中氏と協力した。枝野氏は「野党、少数派の意見に耳を傾ける懐の深い大きな政治家だった」。辻元氏は「戦争だけは絶対あかん、憲法9条は絶対守るという意思が強い方だった。平和のともしびが消えてしまったかと残念でならない」。
野中氏は安倍晋三首相の政権運営に批判的だった。自民党の竹本直一衆院議員は「党内の右傾化などを懸念されていたと聞いた。自民党のご意見番がいなくなるのは寂しい」。日本維新の会の下地幹郎氏は「沖縄の振興にも基地問題にも体当たりで尽力され、沖縄の人々の信頼を集めた。安倍政権が手本にすべき姿勢だ」と惜しんだ。【西田進一郎】(毎日新聞18年1月26日)』
『<野中広務さん死去>「保守の政治家の良心」村山元首相
村山富市元首相は27日、26日に死去した野中広務元官房長官を悼むコメントを発表した。全文は次の通り。
自治大臣や内閣官房長官、自民党幹事長など要職を歴任された野中広務さんが昨日亡くなったとの報に接しました。
野中さんは、ハト派リベラル政治を目指した自社さ政権づくりに尽力され、村山内閣では、自治大臣、国家公安委員長として支えて下さり、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件などこれまで経験したことのない災害や事件に見舞われた際には、優れた政治力で陣頭指揮をとっていただきました。また、何よりも一人の政治家としても本当に親身に助けていただきました。
常に社会的に弱い立場の皆さんに温かいまなざしを向けられ、また沖縄にも心を寄せられていたことが忘れられません。何よりも、ご自身の戦争体験から、反戦、護憲の筋を通された気骨のある信念の政治家でした。政治家の潔さが感じられる、保守の政治家の良心そのものという存在でした。引退後も今の政治に警鐘を鳴らされてきましたが、惜しい政治家を失ったことは本当に残念であり、一つの時代が終わったと感じます。
心からご冥福をお祈り申し上げます。(毎日新聞18年1月27日)』
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『小沢一郎・自由党代表 私が政治改革を志して、その道を進み始めたときから、考え方や政治的な立場は異なったが、政治的手腕・力量は他の追随を許さず、同じ政治家としていつも感服していた。また、ご自身の体験・経験に裏打ちされた深い哲学・思想を持ち、常にそれに基づいて果断に行動されてきた信念の政治家。存在そのものに大きく重く説得力があった。』
『石破茂・元自民党幹事長 田中派事務所の職員として、野中さんの最初の選挙の1983年の衆院補選で、(京都府の)舞鶴に1カ月泊まり込んで選挙を手伝った。演説が非常に上手だった。弱者への思いやりとか、今の自民党から失われつつあるようなものを持っていた政治家だった。』
『辻元清美・立憲民主党国会対策委員長 野中さんは社会党委員長だった土井たか子さんとも非常に親しく、お二人とも戦争体験者で、戦争だけは絶対あかん、憲法9条は絶対守るという意志が非常にお強い方。平和のともしびが消えてしまった。日本のひとつの良心だった。この時代に、もう少し頑張ってほしかった。』
『野田聖子総務相 郵政相就任時も今回もとても喜んでくれた。お祝いに頂いた高級ペンは大臣室の私の傍らにある。尊敬する先生をまた一人失い、悲しい気持ちでいっぱいだが、「その分しっかりとした政治家になるんだぞ」といま一度背中を押されている気がする。』(朝日新聞18年1月27日)
野中氏は、安倍首相が独裁的な政治を行なっていること、9条改憲を目指し、集団的自由権行使を容認、安保軍事強化をどんどん進めて行っていることを、沖縄を軽視していることをとても憂慮し、批判もしていて。安倍政権は早く終わった方がいいと考えて上げていた。<確か野田聖子氏が総裁に出ようとしていた時も応援していた。 今年の総裁選でも応援して欲しかったな~。(・・)>
昔は、自民党内にもこういう重鎮、議員が何人もいて、首相や周辺にもしっかりと意見をしてたことから、。仮に自民党が圧倒的に多数を占めていても、バランス機能が保てる部分があったのだけど。
残念ながら、安倍官邸にものを言える議員がほとんどいない今日この頃。自民党内にも、野中氏のことを思い出して、立ち上がる議員がどんどん出て欲しいな~と願っているmewなのだった。(@@)
THANKS