昨日、23日、沖縄「慰霊の日」の平和式典が、沖縄戦最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園で行なわれた。(**)
<77年前の6月23日に、沖縄戦が終わったとされている。>
20年、21年とコロナの影響で、式典の規模を縮小。首相などの招待もとりやめていたのだが。今年は、3年ぶりに岸田首相をはじめ衆参議長なども式典に出席した。
先に言いたいのだけど・・・。沖縄慰霊の日の式典のNHKの中継って、以前から、25分しかやっていなかったんだっけ?
一般のニュース番組も、冒頭で扱ったところはなかったかも知れず。扱っても、ごく短時間だった感じがして。何だかな~とぼやいてしまった。 _(。。)_
沖縄では、戦争関連で亡くなった人が20万人以上いるのに。戦争中の死者は、一般住民だけでも10万人以上いると言われているのに。<東京大空襲が約10万人、広島の原爆が(当該年だけで)約14万人、長崎の原爆が約7万4千人。それ以上の犠牲者を出ているのに・・・。>
せめて、慰霊の日ぐらいは、ニュースもワイド・ショー番組も(それこそNHKは特集を組んで)、沖縄戦がどのようなものだったか、どれだけの被害が生じたか、しっかりと伝えて欲しいと思う。
こわいをしって、へいわがわかるのだから。(・・)<後述>
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ハト派の岸田首相は、少し前のあの首相よりは心がこもった挨拶をしていたが。基地問題は軽く流し、辺野古基地には触れなかった。<でも、帰れコールはくらってしまったようだ。^^;>
『平和祈念公園での追悼式に、首相として3年ぶりに出席した岸田首相は挨拶で、戦没者に対する哀悼の意を表した。
そして、「20万人もの尊い命が失われ、沖縄の美しい自然、豊かな文化は容赦なく破壊された」として、「私たちが享受している平和と繁栄は、貴い犠牲と、苦難の歴史の上にある」と述べた。
その上で、5月に本土復帰50年を迎えたことに触れ、「この間、沖縄は様々な困難を乗り越えながら、着実に発展してきた。しかし、県民所得の向上、子どもの貧困の解消などの課題は、今なお残されている」として、「潜在力を最大限に引き出し、強い沖縄経済が実現されるよう、沖縄が21世紀の『万国津梁』の地となるよう、沖縄振興に取り組んでいく」と決意を述べた。
『万国津梁』は首里城の鐘に刻まれた文章の一部で「世界の架け橋」を意味する。
岸田首相はさらに、沖縄の米軍基地について「基地負担軽減の目に見える成果を一つ一つ着実に積み上げていく」と強調。「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」として、「世界の誰もが平和で心豊かに暮らせる世の中を実現するため、不断の努力を重ねる」と誓った。(FNN22年6月23日)』
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沖縄の玉城デニー知事は、ウクライナ侵攻の話も持ち出して、平和維持、国民の命を守る大切さを、琉球語のうちなーぐちや英語を交え、国内外に向けて訴えた。(++)
<今回の平和宣言は、初めて公募による県民意見を募集し、取りまとめたという。>
『沖縄県の玉城デニー知事は23日、沖縄全戦没者追悼式の平和宣言で、ウクライナ侵攻で住民が犠牲となっている状況に触れ、「激動が続く世界情勢の中で、今こそ『平和の礎』に込められた平和と命の尊さを大切にする『沖縄の心、チムグクル(肝心)』を国境を越えて世界に発信することが重要だ」と強調した。うちなーぐちや、英語を交え、不戦の願いを国内外へ発信した。
玉城知事は、ウクライナ侵攻を巡り、77年前に地上戦によって20万人余の住民が犠牲となった沖縄戦の記憶と重ね合わせ「筆舌に尽くしがたい衝撃」と強調。その上で「国際社会が連携し、多様性や価値観の違いを認め合い、対立や分断ではなく、お互いを尊重し、対話を重ね、共に平和を追求していくことが、今求められている」と述べ、一日も早い停戦を願った。
今回の平和宣言は、初めて公募による県民意見を募集し、取りまとめた。県によると、個人5件、団体28件の意見が寄せられ、恒久平和への思いや、次世代に残したいもの、伝えたい思いなどについて、宣言へ反映させた。
在沖米軍基地を巡り「米軍専用施設面積の70・3%が集中し、基地から派生する事件事故、航空機騒音、水質や土壌の環境汚染など、県民は過重な基地負担を強いられ続けている」と強調。政府に対して、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の一刻も早い危険性除去と、移設に伴う名護市辺野古新基地建設の断念を求めていく決意を述べた。(琉球新報22年6月23日)』
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そして、今回の式典で、最も人々の心を掴み、震えさせたのは、小学校2年生の少女が読み上げた「平和の詩」だろう。<ネットでも、好評だった。>
少女は、祖父母と美術館に行き、沖縄戦の絵を目にし、戦争のこわさを知ると共に、平和の大切さを強く認識したという。(詩の全文は*1に)
<尚、少女は佐喜真美術館で、「原爆の図」でも有名な丸木位里・俊夫妻の「沖縄戦の図」を見たようだ。https://artexhibition.jp/topics/news/20210617-AEJ443176/>
母親が77年前の沖縄の絵だと説明。少女は、「ほんとうにあったことなのだ。たくさんの人たちがしんでいて、ガイコツもあった」ことを知る。<できるだけ多くの部分をアップしたいので、詰めて書いてしまってごめんなさい。>
「わたしとおなじ年の子どもがかなしそうに見ている
こわいよ かなしいよ かわいそうだよ
せんそうのはんたいはなに? へいわ? へいわってなに?
きゅうにこわくなっておかあさんにくっついた
あたたかくてほっとした これがへいわなのかな
おねえちゃんとけんかした
おかあさんは、二人の話を聞いてくれた そして仲なおり
これがへいわなのかな
せんそうがこわいから へいわをつかみたい
ずっとポケットにいれてもっておく
ぜったいおとさないように なくさないように わすれないように
こわいをしって へいわがわかった」
* * *
停戦の協議に消極的な、ウクライナ侵攻に絡んでいる人たちに、「おねえちゃんとけんかした。おかあさんは、二人の話を聞いてくれた。そして仲なおり。これがへいわなのかな」の部分を見せたいと思ったりして。(・・)
どうか日本の国民が、特に子供たちが、ウクライナ侵攻で被災した地域、人たちの映像を見て、「せんそうがこわいからへいわをつかみたい」と思って欲しいと。
その思いを、胸のポケットにしっかり入れて、「なくさないように、わすれないように」して欲しいと切に切に願っている。(**)
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知人と「そう言えば、沖縄は昔、社会党が強かったんだよね~」と話をしていたのだが。ふと95年から21年まで、26年にわたって衆参院議員を務めていた照屋寛徳氏の姿が思い浮かんだ。(残念ながら22年4月に胃がんのため76歳で他界。哀悼の意を表したい。)
照屋氏は、45年7月に、父親が仕事で行っていたサイパン島の米軍捕虜収容所で生まれたとのこと。琉球大卒業後、弁護士、沖縄県議を経て、国会議員になったという。<社民党の低迷が続く中、衆院では全国で唯一、小選挙区(沖縄2区)の議席を守り抜いた人でもある。>
後年は、脳梗塞の後遺症もあって、かなりゆ~っくりした口調になったのだが。その光景や口調を覚えている人も多いかも知れない。
『任期中に脳梗塞を患うも基地問題に対する国の不作為を追及する手は止めなかった。後遺症で口調はゆっくりになったが、時折ユーモアを交えながらも事の本質を言い当てた演説は、多くの人の心をつかんだ。
「安倍にも負けず、雨にも負けず」。特に集団的自衛権行使容認や特定秘密保護法の成立、武器輸出三原則の見直しなど、「解釈変更」で憲法の常識を次々覆した第2次安倍内閣には、徹底抗戦を貫いた。
13年、安倍首相がサンフランシスコ講和条約発効の4月28日を「主権回復の日」として式典を強行した時には、議員会館に届けられた式典案内状の出欠返信用はがきに「沖縄にとっては『屈辱の日』であり、総理が言う『我が国の完全な主権回復』は嘘(うそ)だ」と抗議の添え書きを付けて返信した。言葉と行動で県民の思いを代弁する政治家だった。(沖縄タイムス22年4月17日)』
先日も少し書いたように、社民党(旧社会党)は今、存続のピンチにあるのだが。福島党首が「がんこに平和!くらしが一番」のスローガンを掲げて、選挙活動に励んでいる。ここは社民党にも、何とか頑張って欲しいと。平和志向の政党や議員、候補はみんな応援しちゃうmewなのである。 o(^-^)o
THANKS