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昨日、立民党の小西洋之氏の不適切発言が問題になっていたのだが・・・。
小西氏の「サル」「蛮族」などの表現は不適切&失礼なものゆえ、不快に思う人たちには当然に謝罪すべきだと思うが。
ただ、今の憲法審査会の(やや野蛮or乱暴な?)運営の仕方には、私も疑問を覚えている。(-"-)
21年の衆院選、22年の参院選の結果、自民、公明の与党に、改憲に意欲を示す維新、国民のゆ党の2党が加わって、改憲勢力が衆参とも2/3以上の議席を確保することに。その辺りから徐々に憲法審査会がやや強引な運営の仕方を行なうようになっていたのだが。
22年7月に、祖父・岸信介元首相の代から憲法改正を悲願にしていた安倍晋三元首相が志半ばで他界したため、その遺志を実現しようとする思いも働いてか、改憲推進派の議員の暴走が始まったからだ。(-"-)
その最たる例が「何が何でも憲法審査会を毎週開催する」という運営の仕方だ。<予算委員会の間は憲法調査会は開かないというルールも破ちゃったし。>しかも、改憲に慎重、反対の立場の提案や意見にはどんどん耳を傾けなくなっており議案にしてもらえず。改憲派のペースでコトが進んでいるのである。(-_-;)
* * *
mew個人は(何度も書いていることだが)、憲法改正には絶対反対という立場ではない。憲法が自ら改憲条項を設けている以上、主権者たる国民が真に望むのであれば、またそれが国民の利益になるのであれば、憲法改正をしてもいいと考えている。
ただし、一般国民が主体となる形で特定の条項の改憲を強く要望し、国民的な議論を経た上で議会で慎重に審議し、改憲発議、国民投票を行なうことが望ましいと思う。(・・)
現憲法が改正発議(96条)をする場合、衆参各議院の総議員2/3以上の賛成が必要だと規定して厳しい要件を設けている(硬性憲法である)のも、安易な改憲を防ぎ、慎重な議論を行なうことを求めているからだと解している。(++)
でも、今の国会(憲法審査会含む)での憲法改憲推進派の議員の姿勢はそうではない。
そもそも、彼らの多くにとっては、一般国民が望むか望まない、何を望むかかという重要な点は二の次であって、ともかく「憲法改正なるものをしたい」と考え、最初から「憲法改正ありき」で話を進め、政府与党&国会主導の「上からの改憲」を行おうとしているのである。(~_~;)
自民党は05年、12年に現憲法を全面的に改正する改憲案を発表したのだが、改憲気運は高まらず。それに業を煮やして、維新案も含めて4つの改正条項案を提示して、今、憲法審査会で議論を行なっているのだが。
改正に慎重or反対の政党や議員が(当然にして?)、議論をどんどん進めることに消極的な姿勢をとっているのだが、改憲派はそのことにイラ立っているようで。
近時は、慎重な議員を外してでも、改憲議論を進めようという人が出ているほどだ。(~_~;)
憲法審査会ときいて、思い出すのは、今月15日に98歳で他界した自民党の中山太郎氏のことだ。<ご冥福をお祈りしている。>
中山氏は『父は戦前に衆議院議員、戦後に参議院議員を務めた中山福蔵。日本で初めて女性で閣僚(厚生大臣)を務めた中山マサは母。弟に建設大臣を務めた中山正暉がおり、(略)甥に元衆議院議員の中山泰秀がいる(wiki)』という政治家一家の生まれ。
旧制大阪高等医学専門学校(現大阪医科薬科大学)を卒業し、小児まひの研究で医学博士に。<それもあってか、1997年に超党派での臓器移植法成立に尽力した。>
1955年から大阪府議に。68年~86年まで参院議員(3期)、86年~2009年まで衆院議員を7期務めた、まさに自民党の重鎮であった。
『1980年、鈴木善幸内閣の総理府総務長官・沖縄開発庁長官として初入閣した。89~91年は海部俊樹内閣で外相を務めた。自民党では、参院幹事長や外交調査会長などを歴任した。
2000年1月に発足した衆院憲法調査会の会長に就任。後継機関の衆院憲法調査特別委員会でも委員長を務め、07年5月の国民投票法成立に尽力した。憲法論議で与野党の協調を重んじる中山氏の手法は、「中山方式」として知られる。(読売新聞23年3月23日)』
* * *
以前にも何回か、海部元首相が90年に、湾岸戦争に自衛隊を派遣して欲しいという米国の要請を「憲法9条がある」「集団的自衛権の行使が認められていない」との理由で断固拒否したことに敬意を表している』という話を書いたことがあるのだが。
この時に海部内閣で外務大臣を務め、米国や国会の対応に務めていたのが、当時、外務大臣だった中山太郎氏だ。(・・)
この時、日本は自衛隊を派遣する代わりに多額の財政支援を行なったのだが。いわゆる(超)保守タカ派の議員や識者は、それが国際的には評価されていないと主張。<自らも、血を流す覚悟がないといけないと。・・・自分たちが血を流すわけじゃないのにね。(-"-)>
そこから、少しずつ憲法改正の主張がオモテに出るようになって来た。(-"-)
特に98年に超保守派の団体が集まった「日本会議」が創設されたのを機に、安倍晋三氏らの超保守派議員が、憲法改正を強く主張するようになり、森政権下の2000年1月に、ついに憲法審査会の前進の憲法調査会が設けられることに。その会長を務めたのが、中山太郎氏だった。(++)
当時は、まだ国会議員の中にも、国民の中にも「憲法改正」に疑問や抵抗感を覚える人が少なからずおり、憲法調査会を発足したとなれば、「すわ、改憲か」と見られるような部分があった。
中山氏は、そのような改憲慎重派にも配慮し、野党の提案や意見に耳を傾けて、与野党双方が合意できる形で議論を進めることを重視。これが上の記事にある「中山方式」だ。(++)
<当時、民主党議員だった枝野幸男氏や辻元清美氏なども、中山氏には信頼を寄せていて、議論を拒否しなかった。>
昨日30日の衆院憲法審査会でも、出席した議員が中山氏を偲ぶ声が相次いだという。<注・2文めの「現在も受け継がれている」は、「受け継がれなくなっている」が正しい表現と思う。>
『中山氏は会派の所属議員数にかかわらず発言機会を平等に確保するなど丁寧な運営を心がけた。この方針は「中山方式」と呼ばれ、現在も受け継がれている。
森英介会長は審査会の冒頭、「中山氏は、与野党ともに政局を離れ、国民のための議論を深めるという信念のもと、公正円満な運営を指導してこられた。委員一同を代表して哀悼の意を表する」と述べた。(略)
立憲民主党の枝野幸男氏は現状の憲法審について「強引かつ独善的な議論と運営が拡大し、合意形成の機運がますます乏しくなっている」と指摘。「中山氏の懐深い人柄があったから建設的な議論が進んだ。合意形成可能な論点と方向性はどこにあるのか、もう一度考えるべきだ」と述べ、性急な改憲論議をけん制した。(毎日新聞23年3月30日)』
* * *
そんな中、維新の三木氏はこのような発言をしていた。<中山氏の遺志を改憲推進に利用しちゃうのね。(-_-;)>
『維新の三木圭恵氏は、同党の馬場伸幸代表が中山氏の秘書を長く務めたことに触れ、「中山先生の遺志を継いで憲法改正に取り組み、憲法議論をけん引してきた馬場代表と心を一つにして憲法改正の国民投票に取り組むことを誓う」と述べた。(同上)』
そう。何と維新の馬場代表は、1986年から8年間、中山太郎衆院議員(当時)の秘書を務めていたとのだという。(・o・)
その馬場氏が、中山氏が亡くなった翌日に何と言っていたか・・・。
『「仮に(立憲民主党が)ボイコットするようなことがあっても、憲法審査会を進めていただきたい。自民党に(開催を)求めたい」と述べ、立民が開催に反対した場合でも、審査会を開くべきだとの考えを示した。」
『審査会で進む緊急事態条項の議論について「立民は何か腰が引けているような形で、隙あらばまたサボってやろうということが見え隠れしている」と指摘。国民民主党、衆院会派「有志の会」と共同で検討中の同条項条文案に関して「成案が得られれば、それがベースになっていく。自民にも党内の意思決定を行ってもらい、成案作りを促進したい」と語った』という。(産経新聞23年3月16日)』
立民党は、単に改憲反対だから抵抗しているのではない。<泉代表も枝野氏など、改憲自体はOKの議員は結構いる。>
ただ、自維国の改憲推進派が乱暴な議事運営をして、強引に毎週、会合を開いたり、立民党などの議案の提案を軽視して具体的な条文案作りを進めたりしていることが問題だと主張しているのだ。(**)
ところが、馬場氏のように「立民が開催に反対した場合でも、審査会を開くべきだ」と、自分たちの意に沿わない人たちは排除するような(中山方式とはかけ離れた)発言をする人が出て来ているわけで。
これ以上、憲法審査会が暴走して、「改憲ありきのサX」とは言わないが、議会人にそぐわない野蛮で乱暴な言動によって改憲を進めないように、国民やメディアがしっかり監視する必要があると訴えたいmewなのだった。(@_@。
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