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維新の会が、統一地方選で躍進。5月にはいってから、政党支持率も急激にアップして、立民党を大きく上回るようになっている。(@@)
何故、維新の会がこれだけ支持されるようになったのか・・・この記事を読んで「なるほど~」と思わされる部分がいくつかあった。(++)
裏を返せば、この記事には、何故、立民党の支持率が上がらないのか、その理由も書かれているようにも思う。(・・)
今の政治状況を考える上で、参考になればと思い、ここにアップする。(mew注・本文中の小見出しに☆をつけた。)
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『「維新の会」にあって自民・立憲にない「2つの戦略」…「見棄てられた庶民」の心を掴んで放さない決定的理由
現代ビジネス 5/16(火) 御田寺 圭
先月実施された統一地方選で、日本中に衝撃をもたらした「維新の会」の大勝。維新はもはや「大阪(近畿)のローカル勢力」という既存のイメージでは説明がつかないほどの一大勢力となり、間もなく「野党第一党」の座をつかむ可能性が出てきたとまで言われる。なぜここまで彼らは強くなったのだろうか。
インターネット世論を眺めるだけでは見えない、維新の実像と強みとは? 前編記事【まだ「維新の会」をナメている東京人の限界…「嫌われ者」の彼らが躍進した本当の理由】に続いてお伝えする。
庶民を惹きつける「維新の物語」
もうひとつの軸――それが「物語性」である。
維新の持つ「物語性」こそが、維新の計り知れない「根強い支持」の源泉となっている。
たとえば2020年からの新型コロナウイルス感染拡大の時期においては、大阪府の吉村洋文知事のコロナ対策が府民には大きく支持されていた。覚えている人も多いだろうが、東京圏の人びとの意見が大きく反映されがちなツイッターでは「イソジン吉村」「感染爆発させている大阪民国はバカ」などといった嘲笑的な声が相次いで寄せられていた。ところがそのとき、当の大阪では「吉村さんは一生懸命に頑張っているのに、東京(政府)やメディアが吉村さんの足を引っ張ってばかりで気の毒だ」という認識がひろく共有され、吉村氏のコロナ対策や彼を支持する人の割合は7~8割にものぼっていたのだ。関東圏在住の人びとからすれば信じられないかもしれないが、けっして冗談で言っているわけではない。
「市民感覚をもって頑張ってくれている人(維新)に対して、その頑張りに答えないばかりか冷笑する政府や東京のエリートたち」というストーリーが強調されることで、維新は市民から「私たちの声を聞かないあんな奴らに負けないで!」と大きな支持を拡大していった。
もっとも、維新が重んじる「市民感覚」を冷笑する中には、中央政府だけではなく左派・リベラル派の人びとも少なからず含まれていた。……というか、維新を名指しで冷笑・嘲笑していたのは主として自民党を支持する右派ではなく、どちらかといえば左派・リベラル派とその支持者が主だっただろう。
かつては「素朴な生活者/市民感覚の味方」を標榜していたはずのリベラル派・左派は、いつのまにか都市部在住エスタブリッシュメントの先鋭的思想を地方に“啓蒙”するエリート主義を鮮明にして、むしろそうした維新的な市民感覚を「バカw」「ネトウヨw」「壺w」と嘲笑するようになった。
「クジラの淀ちゃん」が象徴したもの
ここできわめて重要なのは「市民感覚を大切にする維新 vs. 市民感覚を馬鹿にする上から目線のリベラル派・左派」という物語は、もはや大阪や近畿だけでなく、いまや全国各地においても当てはまり、意識される構図が生まれていることだ。
今回の道府県議選ではその結果がはっきりと目に見える形で現れた。自民だけでなく、立憲や共産とその支持者たちもまた「市民感覚と物語性の政党」である維新によってその議席を大幅に奪われてしまうことになった。自分たちが「市民から嫌われる権力者」側となってしまっていることに、左派・リベラル派はいまも気づいていない。
余談であるが、大阪湾にクジラが迷い込んでそのまま死んでしまったニュースが話題となったのは記憶に新しい。結局クジラは大阪市の主導で海に沈められることになったのだが、これについて松井市長が「海から来たクジラ君ですから、亡くなってしまったら海に還してあげたい、僕はそう思っています」と述べたことに大阪では支持の声が集まった。
実際のところ、この一連のクジラ騒動で大阪は総額で8000万円超もの公費を負担していたのだが、これを「ムダ遣いだ」と非難する声はまったくといってよいほどなかった。なぜならここにも「物語性」があったからである。
「クジラの淀ちゃんはもともと海から来たんやから最後は海に返してやろうや」という、ただしいのかただしくないのかよくわからないけどなんとなく胸がジーンとするような、ある種の「浪花節」というべきだろうか、そういう(合理性を重視するエリート層には理解しがたい)ユーモアを大切にする態度を市民が喜ぶことも、維新はちゃんと理解していた。
☆ 「市民感覚 vs. 政治的・文化的エリート」
ここまでの議論を簡単にまとめよう。
維新は「市民感覚の政党」である。
ゆえに、党派性に囚われずイシューごとに是々非々の態度を取る。それが市民社会には「かゆいところに手が届く」政党として評価につながっている。公共交通機関やインフラを整備してほしいが、かといって自民党のように放漫な財政や汚職や腐敗を招いてほしくない。立憲や共産のように財政に厳しいメスを入れてほしいが、かといって自民批判を延々と目的化するような政党を応援したくない――そういう「中庸的」な感覚を持つ多数の市民にとって、維新は“ちょうどいいバランス”くらいの感覚で支持されている。SNSをはじめとするネット世論では維新は「ネトウヨの投票先」「自己責任論者とネオリベラリストの巣窟」ということになっているようだが、現実はまったく異なる。維新は熱狂的・狂信的な支持ではなく、穏健で中庸な人びとからの投票先として信を得ている。
そして維新は「物語性の政党」でもある。
現在の維新は「市民感覚を大切にする人 vs. 市民感覚を無視したり冷笑したりする人」という対立軸を打ち出し、大阪のみならず全国各地に版図を拡大した。「市民が本当に願っていること」よりも、中央政府の代弁者としての態度を優先してしまう(そうしないと公認を外されてしまうので、かれらにもやむを得ない事情があるのだが)自民党地方議員に対して、「私たちは皆さんのことを見棄てません!」というメッセージ性を打ち出す維新の物語に心を惹かれる人が続出した。ゆえに自民党は議席を失った。よってこれは厳密には「保守政党同士で票を割ってしまった」ということではない。
維新はこれまで「市民感覚(労働者の味方)」の看板を掲げていた左派・リベラル派がその看板を捨て、都市部インテリ層に親和的なラディカルな左派思想(いわゆる “Woke” と呼ばれる先鋭的な思想)に傾倒し、むしろ「市民感覚」を馬鹿にするようになったのを見逃さなかった。「市民感覚を大切にする我々 vs. 私たちを冷笑するインテリ層」という対立軸を打ち出すことにも成功した。結果として、これまで左派・リベラル派を「庶民の味方だから」という理由で支持していたが、現在はその思想的先鋭化についていけず心離れしてしまった「うっすら左派」的なスタンスの人びとさえも、維新支持に鞍替えさせてしまったのだ。
ようするに現在の維新は「市民感覚」をまるで省みない「政治的エリート(自民党)」と、それを冷笑する「知的文化的エリート(立憲民主党・共産党)」に対して不満を持つ名もなき人びとの受け皿とみなされているのである。
☆ 権力者にもインテリにも牙を剥く
維新は「市民感覚」であるがゆえに、各種政策において画一的な党派性に縛られない。保守だろうがリベラルだろうが、意見が一致しなければ牙を剥き、議席を奪おうとする。
維新は、「政治的エリート/文化的エリート主義」に不満を持つ人びとに訴求する物語を随所随所で打ち出している。中央政府の代理人のようにふるまう自民党政治に不満を持つ人にも、左派・リベラル派野党の鼻持ちならないインテリ臭に辟易としている人にも、どちらにも訴求する。
この二軸がいま、全国各地でものを言わずに燻ぶっている「自分たちのことが大切にされていない」と感じている人びとに大きく刺さっている。
あいかわらず、維新を批判する人びとからは今回の選挙結果を受けて「維新を支持しているのは偏狭なネトウヨやネオリベ自己責任論者にすぎない!」「投票したのはバカな奴ら!」といった論調が各所で噴出し共鳴しているが、そうした閉鎖的で視野狭窄的な言説では、いつまでも維新の大躍進の理由をつかむことはできない。それどころか、維新の「物語」をますます盤石にするだけだろう。』
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できれば立民党の(アタマが柔らかい)議員や幹部にもこの記事を読んでもらって、立民党のあり方や戦い方を考えるヒントにして欲しいな~と思うmewなのである。(@_@。
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