【*1、*2などの関連記事は、記事の最後にあるMoreの部分にあります。】
【テニス・・・全仏OP、女子は世界ランキング1位のイガ・シフィオンテク(ポーランド)が2年連続3度めの優勝。(*^^)v祝
全仏では安定感バツグン。昨年は全米でも優勝、今年の全豪はベスト4で、ここからはハード、芝でどう戦って行くかがカギとなる。(・・)<フォアのスピン量(回転数)がナダルと一緒なんだって。重そう。^^;>
そして男子は、36歳になった3位のジョコビッチ(セルビア)が、準決勝で全身がつってしまったという1位のアルカラスに勝利。決勝で4位のルードをストレートで破り、(こちらは得意でない)全仏の3度目の優勝を果たした。四大大会の優勝は23回め。相変わらずうまく、強いのだけど、よくアレだけの肉体、体力を維持できるな~と改めて感心。(*^^)v祝
今週、下部大会でツアー復帰する33歳の錦織圭も、まだまだ頑張らないとね。(ストロークやステップを見る限りはいい感じ。体力が心配らしい。)本人もあと5年は続ける気持ちで、前向きにやるって言ってたし。ガンバ!o(^-^)o】
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昨日11日、参院のドン・青木幹雄氏が亡くなった。89歳だった。ご冥福をお祈りする。
若い人はピンと来ないかも知れないけど。旧・竹下派の実力者として自民党内で
大きな影響力があり、2000年に小渕首相が倒れた時に、根拠を示さないまま「私が内閣総理大臣臨時代理の指定を受けた」と発表。森、亀井氏らの5人組による密談でで内閣総辞職、森喜朗首相決定を主導していたことで有名。
<本人は参院議員ながら官房長官に就任。この時、さして力がなかった森喜朗氏が首相にならなければ、その後も小泉、安倍政権も誕生しなかったし、森氏が今に至るまでOBとして力を持つこともなかったのにな~、と思う。>
また、03年には当時の小泉政権に対峙しようとした野中広務氏を潰した毒饅頭事件も、強く印象に残っている。<あの時、野中氏が勝っていれば、マジで日本の政治の流れは大きく変わったかも知れないのにな~。(ノ_-。)>
青木氏は脳梗塞のため、10年に議員の座を息子に禅譲したのだが。その後も国会近くに事務所を構えていて、OBとして特に参院や現・茂木派で強い力を発揮。何かある時には、青木氏に相談することが多く、岸田首相もとりあえずご意見伺いをしていた。
自民党OBでは青木氏のほか現安倍派のドン・森喜朗氏、現・岸田派のドン・古賀稔氏が党内に強い影響力を持っているのだが。早くも森喜朗氏の力が強まるのではないかという懸念する声が出ている。(~_~;)
後半に五人組や毒まんじゅう事件の記事を少し載せたのだが。自民党では、今でも黒闇っぽい実験争いが続いているのが実情だし。
また、OBが経験者として、相談に乗ること自体は悪くはないが。(時には暴走を抑えるにも役立つ。)自民党の場合は、OBが党運営の実権を握り、内閣の人事や国政のあり方にまで影響を及ぼすことがあるわけで。いい加減、そのような悪しき支配からは脱して欲しいと思う。(-"-)
『青木幹雄・元官房長官が死去 89歳 権勢振るった「参院のドン」
官房長官や自民党参院議員会長などを務めた青木幹雄(あおき・みきお)さんが11日、死去した。89歳だった。
同郷の故・竹下登元首相の秘書を早大在学中から務め、島根県議を経て、1986年の参院選島根選挙区で初当選。当選4回。98年に参院自民党幹事長。99年には小渕内閣で官房長官に就任した。
2000年4月、自由党が連立離脱を決めた直後に小渕恵三首相が緊急入院。官房長官として首相臨時代理となり、内閣総辞職を決断した。さらに自民党の野中広務幹事長代理、亀井静香政調会長、村上正邦参院議員会長とともに後継首相に森喜朗幹事長を選ぶ流れを作り、「五人組」の一人と言われた。
森氏とは早大雄弁会時代からの盟友で、森内閣でも官房長官に留任。退任後は参院幹事長に復帰した。与野党に広い人脈を誇り、自民党が過半数を割る参院で法案の生殺与奪を実質的に握った。小渕、森、小泉の3政権で権勢を振るったことから、「参院のドン」とも評された。
第1次安倍政権では07年参院選で側近議員が相次ぎ落選するなど自民党が大敗。その責任をとり参院議員会長を引責辞任し、執行部から退いた。
10年参院選は当初、5選出馬を表明していたが、脳梗塞(こうそく)で倒れて入院。長男の一彦氏に地盤を譲った。(朝日新聞23年6月12日)』
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『「派内の力関係変わる」 自民党幹部ら懸念 青木幹雄さん死去
官房長官などを歴任した青木幹雄元参院議員会長の死去を受けて、自民党内からは今後の政界への影響を懸念する声が相次いだ。
青木氏は、政界引退後も茂木派の参院側に強い影響力を持ち続けてきた。茂木派OBだが、茂木敏充幹事長とは距離があり、茂木氏にとっては総裁選出馬に向けて派閥をまとめる上で、青木氏との関係修復が課題となってきた。自民党幹部は「青木さんが亡くなったことで、茂木派内の力関係が変わってくるだろう」と語った。
青木氏は、安倍派OBの森喜朗元首相、岸田派OBの古賀誠元幹事長と連携して3派の結束を後押ししてきた。自民の参院幹部は「今後も3派の結束は揺らぐことはない。引き続き政権を支えていく」とした上で「安倍(晋三)元首相亡き後、発言力が高まった森さんの力がさらに大きくなるだろう」と予測した。【飼手勇介】(毎日新聞23年6月12日)』
2000年の五人組・・・小渕首相が脳梗塞で倒れてこん睡状態になっていた中、誰がどう決めたのか、青木氏が「内閣総理大臣臨時代理の指定を受けた」と言い、その後の内閣総辞職、首相を決定を仕切ったのだ。^^;
『青木幹雄官房長官(当時):「総理の病状、検査の結果について申し上げます。病名は脳梗塞(こうそく)であります」
時の総理大臣が倒れるという一大事。その時、官房長官を務めていたのが青木幹雄さんでした。あの、平成の元号を掲げた小渕総理の内閣。(略)
青木幹雄官房長官(当時):「本日9時、内閣法第9条に基づき、私が内閣総理大臣臨時代理の指定を受けました」
戦後3人目の「総理大臣臨時代理」という立場に。ところが、就任の経緯が不透明だと批判が噴出。さらに、後継の決め方についても批判が。
小渕総理の後継総裁は、当時、自民党幹事長だった森喜朗氏ら5人の会談で決めたとされています。
青木幹雄官房長官(当時):「ご指摘の4月2日における協議の場で、後継総裁の問題を話し合ったことは一切ございません」(ANN23年6月12日)』
『前任の小渕恵三首相が倒れたのは2000年4月1日深夜のことだ。翌朝、村上氏の部屋(参院議員宿舎)の電話が鳴った。官房長官・青木幹雄氏からだった。
「そっちに行ってもいいですか」(青木)
「もう少し寝かせてくれんか」(村上)
「大変なことですよ。小渕首相が入院した――」(青木)
事態を受け、青木氏、村上氏ら自民党幹部5人が都内のホテルの一室に急いで集まった。後継を巡り何人かの名前が上がった。派閥の思惑や複雑な人間関係が重なって微妙な空気が漂う。そこで村上氏が切り出した。
「ここにいる森さんでいいじゃないか」
その一言で事実上「森首相」が固まったという。
話の内容はすぐさま永田町に知れ渡り、読売新聞を含め複数のメディアが報じた。(読売新聞22年10月14日)』
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そして、毒まんじゅう事件に関する記事をちょこっと。
『〈野中氏元秘書に5000万提供 ニチメン詐欺被告側が大半〉
共同通信がこう題した記事を配信したのは、03年8月20日のことだった。全国の地方新聞社が加盟し、記事を配信する共同通信は、日本最大の通信社だ。言うまでもなく、タイトルにある野中氏とは、元自治大臣の野中広務である。(略)
折しも、自民党総裁選を間近にひかえたさなかの出来事だ。人気絶頂の首相、小泉純一郎が再選を目指した。これに対し、小泉改革に反発する亀井静香や橋本派の藤井孝男、高村派の高村正彦といった3人が総裁選に出馬し、党を二分する選挙となる。最大派閥だった橋本派の青木幹雄が、40人の参院議員を引き連れて小泉支持を打ち出す一方、同じ派閥の野中は藤井を推した。小泉支持に回った青木らに対し、野中は「毒まんじゅうを食らった」と罵倒し、物議を呼んだ。(文春オンライン21年5月11日より)』
自民党が長く政権を保持すると、このような黒歴史になりそうな党内での妙な権力争いや、OBの関与が続くのではないかと思うmewなのだった。(@_@。
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