東日本大震災では、大地震や大津波の被害だけでなく、福島第一原発の事故も発生。一つ間違えれば、周辺の何十キロ、何百キロが放射能で汚染され、それこそ首都・東京も含め、人間が立ち入れない地域になるところだった。(-"-)
震災前から、福島第一原発が大津波の被害にあう可能性があるという予測も出ていたのに、政府も東電も対策を講じようとしなかったという話もあるし。事故が起きてからの対応も十分でなかったという批判も出ているのだが。<そもそも何か事故が起きた時の対応マニュアルもきちんとしていなかったようだし。^^;>
前の記事で書いたように、何か大きな災害にあったら、その経験から学んで、対策を実施することが最も大切だと思うのだが。
あの東日本大震災&福島原発事故を経験して、一番学んでいないのは、原発政策だろう。(**)
あのような事故が起きたからには、国も全ての電力会社は(&原発に関わる人々も)、もう「原発安全神話」は忘れるべきなのだ。(・・)
今年1月1日、能登半島で最大震度7、珠洲市では震度6強の大地震が起きたのだが。もし70年~80年に進められた計画が実行され、珠洲原発ができていたら、今回の地震で大事故が起きたかも知れないと考えれば」、尚更だ。(-"-)
しかも、このブログでも伝えたように、能登半島の中頃にある志賀原発(志賀は震度5強)では、変圧器に異常が生じ、外部電源を取り込めなくなるトラブルが発生。海水に取り込み口の水位上昇なども報告されている。(@@)
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8日、TBS「報道特集」で、珠洲原発建設に反対する運動を行なって来た人たちを取り上げていた。また、他の番組やネット(新聞記事等)でも、珠洲原発の計画STOPの記事がいくつか出ていたので、既に目にした人もいるかとも知れないが・・・。
福島第一原発事故の後、さらには1月1日の能登地震以降、原発建設に反対していた人たちのところに、現在及びかつての住民から、「建設に反対してくれて有難う」「原発建設をしないで、よかった」との連絡が次々とはいっているという。(^^)
<ちなみに珠洲市は、22年、23年に震度5強。24年に震度6強の地震に見舞われ、原発建設予定地の周辺は山崩れや地盤の変形が生じている。>
珠洲市では70年代前半から、周辺の電力会社や国が珠洲市に原発を建設する計画を立てて、地元の推進派と話を進めていたのだが。建設対象となった土地の所有者である寺や地元の住民たちが、当初の原発建設計画から30年近く、国や電力会社や推進派の市長、住民などなどと戦い続け、珠洲原発の建設計画を凍結させたからだ。(**)
能登半島周辺の北陸電力や中部電力、関西電力などが、1970年代前半から能登半島の珠洲市に原発を建設することを計画。
当時の珠洲市の市長や政府(通産省)とも話が通っていたようで、75年に通産省資源エネルギー庁が候補となっていた地域を調査を開始。77年に「地盤が相当固く、原発立地には別段の支障がない」との判断を市長に伝えたという。(-"-)
<TVに、電力会社や推進派が作ったであろうチラシが映っていたのだが。「原子力発電所は岩盤のしっかりした場所が選ばれています」「地震には自信あり」などの言葉が大きな文字で記されていた。(>_<)>
当時の市長・黒瀬七郎氏は原発推進派。珠洲市は過疎化が進んでいたこともあって、地元の経済界は原発誘致に賛成する人が多かったという。
黒瀬市長は78年の市長選でも再選。原発誘致の話が進んで行きそうだったのだが。79年に米国のスリーマイル島原発で炉心融解し周辺に放射能が漏れ出す事故が起きたこともあり、珠洲市の住民の警戒心が強まった。
<この後、81年には、福井県の敦賀原発で放射能漏れ事故が起こり、事故隠しも判明。>
しかし、地元住民の間で珠洲原発の反対運動が起きて、「珠洲原子力発電所建設反対同盟」を結成。80年には、能登原発(現・志賀原発)の反対運動などが共催で「原発を許さない県民の集い」を開催したという。
町は賛成派、反対派で二分されるような状態に。86年には珠洲市議会が、原発誘致を可決したこともあった。<チェルノブイリ原発事故が起きた後だったのに・・・。>
92年頃には、中部電力と関西電力は、現地事務所を開設して30人ずつの社員を置き、地元の説得や土地借り上げを進め、93年に要対策重要電源の指定されるなど、強引に原発建設を進めようとして来たのだが
ただ、原発反対派は嫌がらせなどを受けながらも、20年以上(当初計画からだと30年近く)、地元の原発反対派と国や電力会社、原発推進派との戦い続けた。
そして、2003年12月、電力3社の社長3人が珠洲市役所を訪れ、珠洲原発の建設計画凍結を珠洲市長に申し入れたことで、原発建設は実質的に中止に追い込むことに成功したのだ。(^^)v
<電力会社は、産業構造の変化と電力需要の低迷を理由に計画を凍結した。反対運動の拡大、土地買収の失敗も要因になっていたようだ。>
おそらくは、当時、珠洲原発の建設計画に関わっていた電力会社や推進派の人々も、今頃、ほっとしていることだろう。(・・)
東京新聞のこちら特報部『珠洲原発を止めて「本当によかった」 無言電話や不買運動に耐えた阻止活動28年の感慨』(2024年1月23日)より。
<全文はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/304462>
『「どこで何があるか分からん。本当に珠洲原発を止めて良かった」
今回の地震で被災した高屋地区にある円龍寺の住職・塚本真如さん(78)は今月中旬、同県加賀市にある2次避難先のホテルで「こちら特報部」の取材にほっとした様子で語った。(略)
関西、中部、北陸の3電力は1976年に正式に原発計画を公表した。しかし、関電が建設計画を進めた高屋地区では当初、住民のほとんどが反対していたという。そこへ関電側が住民の懐柔に動いた。「タダで飲み食いさせたり、原発視察名目の接待旅行に何度も招いたり。芸能人を呼んだ住民向けのコンサートも開かれた。僕は一度も行かなかったけど、最後は住民が飽きて視察に参加しなくなるほどだった」
関電から、地域の祭りで使う奉灯「キリコ」の収納庫や農作物の保冷庫などを建てるための多額の寄付もあった。原発予定地の土地を貸して、億単位の賃貸料を得た住民もいたという。「カネ」の力の前に、一人また一人と賛成に回り、地域は分断されていった。』
『計画が持ち上がった当初、塚本さんは原発に賛成でも反対でもなかった。しかし、「推進、反対の本を100冊は読んだ。学ぶほど、安全はウソで固められていると疑うようになった。放射能と人間は共存できんなと」。米スリーマイル島や旧ソ連チェルノブイリでの原発事故もあり、疑念は確信に。反対運動へ深く関与していった。』
『高屋地区では住民の賛否が分かれる中で、毎年秋の住民運動会が中止された。生活雑貨店を営み、原発に反対した井上伸造さん(76)は「『反対派の店で物を買うな』と、不買運動も起きた」と明かす。
塚本さんへの圧力も強まった。自宅では連日、無言電話が鳴り、電話が盗聴されたとしか思えない内容が書かれた手紙などが届いた。嫌がらせは、計画が凍結されるまで10年以上続いた。推進派に包丁を突きつけられたこともあった。しかし、「絶対に推進派の個人攻撃だけはするな」と周囲に何度も言い続けた。」
『今回の能登半島地震で珠洲原発の予定地だった高屋地区の海岸線は数メートル隆起した。もし原発があったら大打撃を受けた可能性もあった。前出の井上さんは「原発事故が起きたら、能登はなくなっとったかもしれんね」。塚本さんは淡々と語る。「言葉を尽くすより、あの様子を見て想像がつくでしょう。やっぱり日本に原発を造れるところなんてどこにもないね、と」』
そうなのだ。どう見ても地震大国の日本には、原発を作っても安心な場所など存在しないのである。
改めて言うが、政府も電力会社も「原発安全神話」は捨てて、1日も早く原発に頼らない国を作るように、方針転換をして欲しいと強く強く訴えたいmewなのだった。(@_@。
THANKS